好きなことだけでやっていく。
そう決めて5年目に突入します。
あんたは好きなことしかやらんけえ
儲からんじゃろうね
母がため息混じりにこう言ったのはわたしが10代の頃。
そこから30年経って状況はずいぶん変わってきたと感じます。
むしろ、好きなことでしか儲けられない時代が来ると信じています。
それにしても、わたしがいつの日か独立して
不安定な生活を始めるのでは?と心配していたとは
さすが母親というべきですね。
いちおう、勤め人を15年やってはいるのですが。
実は臆病なところもあるわたしが「好きにやる」と
覚悟をできたのにはわけがあります。
※この景色を見たいから帰ってきたふるさと@鉢が峰・三原市
父の夭逝
何よりも大きかったのが、父が早世したことです。
父32歳、わたしが5歳のときのことでした。
若くても人って亡くなることがあるんだ、と。
それをすぐ目の前で見たことが、思考に大きく影響しました。
いつ何が起こるかわからん。
そう思っているので、幼い頃から好きなものは真っ先に食べる派です。
だってあと数秒後に大地震が来て万が一食べられなくなったら
ものすごく悔しいですもん。
なにしろ、食べ物の恨みは大きいですからね。
妹の喘息
二つ目は、体の弱かった妹の存在です。
今でこそほぼ普通の暮らしができている彼女ですが
幼少時はほぼ家にいませんでした。
喘息で長期入院したり、目の手術で県外の病院に通ったりしていたからです。
元気を人間のカタチにしたらあなたよね、
なんて言われるわたしと対極にあったのが妹でした。
何度か三途の川のすぐ近くまで足を運んでみたり、
こどもなのに、薬で腹一杯になりそうな生活だったりしました。
元気なうちに、やりたいことはやらないと。
教えられるでもなく、それが当たり前になっていた、
そんな彼女の行動もわたしに影響しています。
何かやりたい!と思ったらそそくさと行動に移せる方です。
もちろん、それで失敗することもあるのですが、
行動してわかることのメリットの方が大きいです。
この機動力は、妹に教えられたなと感じます。
母の介護
三つ目が母の介護が思った以上に早く始まったことです。
まさか自分が20代で介護する側に回るとは思わないでしょう。
母との年齢差40歳を考えても、ちょと早いよな、というところ。
子どもも少し手を離れて、仕事にも慣れてきて。
ようやく、ちょっと自分の時間が取れるよね。
そう思った矢先でしたから。
介護生活は全て勤め人の状態で乗り切りましたが
我ながら片道300キロの遠距離介護をよくやったと思います。
最初は介護保険制度もイマイチわかっておらず、
すべて自前でやろうとして文字通り死に物狂いでした。
人に話すと、「大変だったね」と言われることも多いですが
人生の時間は有限、自分が元気でも何が起こるかわからない。
これを身をもって認識できたのはありがたいです。
おかげで、心地よく暮らすための覚悟も得られましたし。